2026年6月23日の杉江松恋
2026年6月22日。
杉江松恋が今月書かなければならない原稿、やらなければならない仕事は以下の通り。
レギュラー原稿:週刊2・隔週刊1・旬刊1・隔月刊1
イレギュラー原稿:書評1・文庫解説2
その他:動画撮影配信3・浪曲台本1、打ち合わせ1
どうも右の耳の奥に違和感があって、ものを噛むと痛いことがあるし、もしかすると何かの
病気ではないかと思い、朝一番で耳鼻科に行ってきた。診察結果は顎関節症で、軽く炎症を起こしているという。放っておけば治るとのことであった。顎の関節を触って耳の中を見て30秒で880円である。しかし専門家に診てもらったのだから、これはこれで仕方ない。放置して耳の病気になるのが怖かったから、予防のつもりだったのだ。
噛み合わせが変なのは、左上の第一臼歯を治療したからだと思う。銀歯が取れたので歯科医に行ったら、長い年月の間に歯と詰め物の間に隙間ができていて、腐蝕が進んでしまっていると言われた。やむなく削ってもらったら思いのほか大工事になってしまい、もはや詰め物では済まなくなった。根元だけ残して人工歯を被せる処置で、13万円である。いっぺんに払うと心臓に悪いので、型をとって仮歯を被せるときと、本歯を嵌めるときで分割にしてもらった。それにしても13万円は痛い出費だ。
私は歯を食いしばる癖があって、原稿が佳境に入ってくると気が付かないうちにやっている。だから顎関節症になるのだろうし、もしかすると銀歯が劣化したのもそのせいかもしれない。13万円の元はそれである。しかし歯を食いしばらないと原稿は書けないのだ。マウスピースを買うことを本気で検討すべきかもしれない。
Twitterで作家の平野啓一郎氏が、雑誌インタビューの校正刷りを見たら自分が普段しない言葉遣いをしたことにされていて一気に作業意欲が低下した、という意味のことを書いていた。昨日のことである。それに対し、立場のある人がそういうことを言うのは恫喝やハラスメントにあたり、態度としては傲慢ではないか、と批判をされた。私はどちらかと言うと平野氏に同情する気持ちが強いのでそれを表明したところ、別のB氏から、言いたいことはわかるが誌面に出る前の段階でそれを言う必要があるか、と疑義を呈された。
たしかにわざわざ言わなくてもいいことかもしれないのだけど、推測するによほど不快だったのだろうとは思う。つい愚痴ってしまったのだ。私怨ではあるし、態度として綺麗ではないが、発言することを否定するほどに反社会的な行為とは思えない。媒体名も、そのインタビューアの名前も出していないわけで、ハラスメントと呼ぶのは少し気が早いのではないか。愚痴のあとには、AIじゃなくて人間が書いたからましとは限らない、という意味のことも平野氏は付け加えていて、それなどは言わずもがなの悪口になりかけているとは思う。ちょっと余計だが、よほど腹が立ったのだろう。
その人が自分について表す言葉は、身体と同じで、自己同一性の一部である。それを自分ではないもので代替されたら身体の簒奪に近い脅威を覚えるのは無理もないことだ。どんな人であっても、自分の身体ともいえるものを奪うな、と抗議する権利はある。それが作家であっても、そうではない立場の人であっても等しくある。平野氏が、自分についてはそのように発言しておきながら、他人の身体性や言葉を奪うような行為をした場合はもちろん批判されるべきだとは思う。もしそういう他人の権利を奪うような行為を先に平野氏がしていたのなら、今回の発言に何様のつもりかと言われても仕方ないとは思うのだが、私は寡聞にしてそうした前例を知らないのである。
本件について私が反応したのは、インタビューアとして気にかけていることの一つが、インタビューイが使う言葉を恣意的に変形させない、ということだからだ。インタビューをする際に大事なことは第一に、読者がその場にいるような臨場感があること。第二に、インタビューイの発言意図を理解して、聞き手が捻じ曲げたり捏造したりしないこと、だと思っている。その前提として、話し言葉は書き写すとそのままでは意味が通らないことも多いので、可能な限り整理する、という基礎作業も当然ながら発生する。私の失敗例で言えば、この整理の段階で間違いをやらかすことが多かった。
今でも覚えているのは、俳優の桃井かほり氏と作家の北方謙三氏の対談を公正したときのことだ。二人は初顔合わせではないので、北方氏の一人称は「俺」、桃井氏は「あたし」だった。それを記事化した際に桃井氏の一人称は当然ながら「あたし」にしたのだが、著者校ではすべて「私」に直されていた。北方氏は「俺」のままだったと記憶している。
ええっ、桃井かほりは「あたし」って言うじゃん、あのときもそう言っていたじゃん、とそのときは思ったのだが、今なら理解できる。映像を観て出来上がった「あたしと自称する桃井かほり」のイメージをインタビューアである私が強く持っていて、実際の氏の発言に上書きしてしまっていた可能性がある。こちらが勝手にパブリックイメージだと思っているものでも、拒む権利はインタビューイの側にある。当然のことだ。
以来、インタビューの一人称については基本的に「私」を採用している。「僕」や「俺」が一人称の方の場合も「私」である。これを「僕」や「俺」に修正されるのは、インタビューイの自由である。そうした一人称の修正が行われても全体の雰囲気は変わらないように、インタビュー全体の雰囲気は整えておくことが大事だ。
自身に関するものだけではなく、語彙についても気を付けなければいけないことがある。文士の癖というものがある。小林信彦氏がグルーチョ・マルクスを「グラウチョ」と書くような例だ。これは正式な表記がどうかということの他に、当人の拘りなので生理的に他の表記は受け付けがたいというものである。私にもいくつか受け付けがたい表現があって、校正などで直されると、その拘りの度合いによって「ママ」「できればママ。さほどこだわりません」「赤字通りで結構です」と使い分けている。拘りと書くぐらいだから個人的な執着であって、決して褒められるようなものではないわけである。そうした拘らないほうが、他人からは評価されることが多いはずだ。つまり面倒くさいわがままである。
物書きというのはこうした文士の癖の塊のようなもので、社会との折り合いをつけるにおいては、自分の執着をどの程度なだめすかせるか、ということも大事になってくる。しかしたまには生理的に我慢ができないこともあるわけで、そうした場合に上記のように拒否権を発動するのはやむないことだと思う。自分の責任においてそれをするのであれば、誰にも止めることはできない。
とにかくインタビュー原稿の校正というのは手間がかかる。インタビューイに送られてくる際はもう流し込みで版面になっている場合がほとんどだから、極端な直しをすればハミダシや行足らずを生じさせてしまうことになる。だから直しを入れる際は、字数や行数をいちいち気にしながら、こっちで何字増やしたからその分こっちで削って、といったちまちました作業をすることになる。基本的に手作業なので、面倒くさいのだ。無理でも作業意欲を掻き立ててから始めなければならないので、出鼻をくじかれるような表現があったら、それは嫌にもなるだろう。
以前に一度、ひどい対談原稿にぶち当たったことがある。何かが間違っているというよりも、構成者はわれわれの会話を聞いていなかったのではないか、と思うほどのかけ離れた内容だったので、頭を抱えた。仕方ないので対談の相手と相談しながら直していった。何時間かかったか覚えていないが、こんなことなら最初からわれわれのどちらかが構成していたらよかったね、と二人ながらにぼやいたものである。
インタビューイの味わう嫌な思いというものを理解しているからこそ、そうしたことにならないようにしよう、と気を付けている。あくまで私は、ということだが。最近受けたインタビューはどれも良質で、ほとんど直す必要がないものばかりであったことは付け加えておきたい。
ずいぶん長くなった。昨日は午後3時半から都内某所で打ち合わせがあった。今月もっとも緊張した打ち合わせだったが、無事に済んで安堵した。その後は新宿まで移動し、日本推理作家協会事務局の歓送迎会。2年間働かれたKさんがお辞めになって、Sさんが引き継いだ。そのお礼の会である。貫井徳郎代表理事をはじめとする面々が集まって歓談、2時間ほどで散会した。言うまでもないことだが、すべて自腹である。日本推理作家協会はお金がないので、歓送迎会といえども予算を回すことなどできないのだ。
本日は午後3時まで在宅で仕事をし、そこから一本打ち合わせに。これもまた重要な打ち合わせで、日本推理作家協会理事としての公務である。終わったら都内某所で動画収録に向かう。原稿はできれば2本は書きたいところだ。

すでに登録済みの方は こちら
