2026年9月16日の杉江松恋
2026年9月16日。
杉江松恋が今月書かなければならない原稿、やらなければならない仕事は以下の通り。
レギュラー:週刊8・隔週刊2・旬刊3・月刊1・動画収録配信6・講座1・
イレギュラー:月刊1・インタビュー構成2・文庫解説1・対談1・理事会1・パーティー出席2・書き下ろし2
(前月からの積み残し)
イレギュラー原稿:企画書1
家に籠って書き下ろしに集中したいところなのだが、そうもできない事情がある。今日の午前中はそれに専念し、午後は少し外出して大事な打ち合わせに行ってきた。帰宅してまた原稿中である。このあと9時くらいまで書く。現在の進捗率は30%だが、これを55~60%くらいまで上げたい。
今週に入って、年内にやるはずだったアンソロジーの企画が一つ飛んでしまった。代わりに、来年やるはずだったものが前倒しになったので、仕事のペースはあまり変わらない。そっちまで飛ばなくてよかった。仕事が一つ減って意気消沈していたら、インタビューの依頼が2件来た。アンソロジー1本ほどの収入にはならないのだけど、神様が哀れと思召して恵んでくださったのだろうか。ご依頼いただいた編集者の方、ありがとうございます。
そういえばSNSで、インタビューの際、ライターそっちのけで8割は自分が質問してしまう編集者の話題が出ていた。当人はそれを「編集者あるある」と書いていたのだが、「いや、あるあるじゃないって」とさまざまな意見が出たのである。
大別すると、ライターはインタビューのために準備してきて質問事項も組み立ててあるのに編集者がそれを邪魔するのか、という意見と、事前に編集者との打ち合わせができていれば別に誰が質問しようとかまわないのではないか、というものの二つが目立ったような気がする。あくまで管見に入った範囲ということである。
後者については、ライターは編集者とちゃんとコミュニケーションをとれ、それをするのも仕事のうち、という意見だとお見受けした。たしかにそれはそのとおり、仕事相手とよく話して意思疎通をしておくのは大事である。仕事のイロハとして受け止めた。
しかし、ライターと編集者は同じ立場ではない、ということは書いておきたいと思う。両者がフリーランスということもあるだろうが、編集者は基本的に出版社、またはクライアント側ではないのか。その立場の人と協力してやっていくというのは、フリーランスの側から見ると、相手にいいように使われないための自衛行為である。そのインタビューが成立しなかったり、記事がつまらなくなったりしても、社員が馘になることはない。だが、フリーランスにはお払い箱になる危険があるのだ。それを避けるために、保険として編集者との間に最小限の信頼関係を作っておくわけである。
記名原稿の場合、自分が話したわけでもないことを書くわけにもいかない。私もインタビューのとき編集者に、何か質問はないか、と振ることにしている。編集者にだって何か聞き出したいことはあるはずだし、それに私が気づいていない可能性はある。だから振るわけえある。インタビューが終わった後で、実はこういうことを聞きたかったのだが、と言われてしまっても遅いから、気遣いは必要だろう。そうやって聞いてもらった質疑応答については、本文に盛り込むことはあるが、そうしない場合も多い。すでに私のところで獲れ高は十分になっているからだ。でもあえてその内容を盛り込むこともある。
ライターの側から見ると、質問事項を組み立てておくのは編集者を安心させるためではなく、あくまでもインタビューの対象者に信頼されるためである。胸襟を開いて話してもいい、という気持ちになってもらうためには、相手のことを知りすぎるほどに知っておくことがある。そんなことまで調べてきたのか、このインタビューアは自分以上に自分のことを知っている、と思ったときに初めて聞き出せることがある。そういうインタビューについては吉田豪氏が得意としていて、著書もあるので読んだ方も多いはずだ。そういう話法として質問内容は組み立ててあるので、横から興味本位のことを聞かれると、限られた時間を浪費されてしまうことになる。
私が過去に仕事をした編集者の中には、やはり自分がいろいろ聞きたいタイプの人もいた。そういう人と一緒にインタビューをするときは、別種の戦術で臨むことが多かった。その編集者が型通りのことは聞いてくれるので、もう任せてしまう。その質問が尽きる、あるいは同じことを違った言い回しで聞いているな、と感じたあたりでがっと肩を入れ、私の準備した方向に会話を曲げるわけである。この場合、編集者がしてくれた質問はかなり残した。ただし質問の順番や言い回しなどはかなり手を入れて、型通りの会話に見えないように工夫する必要があった。
よいインタビューと対談には二つのことが必要だと思う。一つめは、それまでの談話にはあまり出てこなかった、新事実が含まれていることである。これは対象の知識が十分でないと出てこないし、聞き方が通りいっぺんだと流されてしまい、掘り下げはできなくなる。二つ目は臨場感があることで、記事を読んだ人が、会話が行われている場所に居合わせているような気分になってくれればいうことはない。この雰囲気を出したいために、質問表通りに聞いているという感じを排除していくわけである。この二つがあれば、おもしろい記事になる、と私は思っている。
前もって編集者と打ち合わせをしていても、その段取りを放棄しなければいけない場合も出てくる。対象者の意見がAだと思って質問を組み立てていったら正反対のBだった、ということは往々にしてある。その場合、既存路線にこだわっていたら絶対に臨場感のある記事にはならない。インタビューを担当するライターはそのことに気づかなければいけないし、ライターが無能だったらそのときこそ編集者の出番のはずだ。そういうときに口を挟むのはやむをえないことだと思う。
あと一つだけ書いておきたいことがある。
SNSで見かけた某編集者の意見として、途中で意見を挟もうが何をしようが、編集者の意図ならライターは従うべきだ、というものもあった。別にライターの自己実現のためにインタビューをしているのではないのだから、と。これはライターを見下した言い方で、私ならこんなことを言う編集者とは絶対付き合わない。
自己実現のためにやっているんじゃない、という言い方自体が失礼で、どんな仕事だって自己実現のためにやるものではないか。かんなを使う職人は、どれだけ綺麗に木を削れるかに身命を賭けている。ライターがおもしろい記事を作りたいと考えるのはそれと同じことだ。自己実現のためにやっているんじゃない、とせせら笑う編集者には、ではご自分はそうやって意を尽くして仕事をしたことはないのか、と伺ってみたい。
繰り返すが、仕事をする人はみんな自己実現のためにやっているのである。ライターも編集者も同じことだ。各々の役割があり、それによってすべき努力も違ってくる。編集者にしかできないご苦労には敬意を払うので、ライターの立場も同じように尊重してもらいたい。


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